南濱墓地 墓石調査 Uブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
Uブロックには目立つ墓はありませんが、台座に注目しました。
ここ南濱では度重なる整理移動によって竿石と台座がバラバラになることが多いです。
それでも、台座にある数文字が想像のヒントになることも。
左端の新しい墓U-1の手前に、古い墓の痕跡が残っています。
縁故者がどこか別の場所へ移したのです。
右側U-16 正面 尚信
尼妙慶
左側面 教専 尼妙雲
実道 尼妙欣
右側面 幻春
尼智圓 浄久
遠證 尼妙寶
裏面 慶應二年(1866)寅正月建 明治まであと2年
台座 本荘
新七
手前左側には敷石の上に白い石が乗るだけ。
その右側には小さな五輪塔。
さらに右側は近年に花立だけが追加されています。
U-13 正面 剥落して読めません。
左側面 教照・妙照 だけが残っています。
敷石をよく見ると、一回り小さな台座の痕跡があり、さらに内側には白い痕跡が見えます。
台座はかなり古くに失われたようで、白い痕跡には上に置かれている石が立っていたのでしょうか?
その白い石もすでに2つに割れています。
一体なにがあったのでしょうか?
左から順に
U-13
U-12 正面 道喜 ●喜
先祖代々
妙誓 妙玄
台座 本庄 太七
U-11 正面 圓流
妙流
左側面 信寿 ●
●● ●
右側面 1文字湊以外は剥落
台座 本庄
●●
左はU-11
U-10 正面 秋空澄意信士
徹應道念居士
台座 本多
U-9 正面 塋域 榮ではなく「塋」は墓の意味です
裏面 文久三歳(1863)七月 明治まであと5年
水盤 足立
台座裏 足立源真斎
釈還済建之
U-8 正面 足立家先祖代々之墓
裏面 昭和62年建立とあります。
U-7 正面 足立家供養寶塔 同じ家紋ですが左の足立家とは別のようです。
この家紋が気になったので調べてみました。
丸の内に二つ引き 丸に弾き二つ引き
ほぼこれに近いです。
「日本紋章学」には記載ありませんでした。
中央の足立家先祖代代 までは比較的新しい。
U-7
U-6
U-5
U-5 正面 浄誓 遠壽
妙誓 妙壽
左側面 教順 誓信
裏面 天保八丁酉年二月(1837)
足立市兵衛
U-4 正面 足立長門之墓
U-3 正面 釈宗雅之墓
右側面 安永五丙申●●●●廿二日(1776)
左側面 足立市兵衛嘉副 U-5も市兵衛ですが別人で、60年離れています。
行年六十有二
足立市兵衛という名前を調べると、意外な人物が登場しました。
南濱墓地から北500mに豊崎神社があり、その末社に東照宮が祀られています。
東照宮はもちろん徳川家康を祀るもので、神社の縁起にこうあります。
大阪冬の陣で傷ついた徳川家康公が退陣中に本庄村の村人にご飯を差し出され
大変喜ばれ、家康公が亡くなった後、幕府より本庄村に東照宮をおまつりする
ことが許されました。
明治時代に当社に合祀されました。
大阪で唯一東照宮として許されたお社です。
この村人というのが足立市兵衛だそうです。大阪府全志には
明治5年村社に列し、同40年6月神饌幣帛料供進社に指定せられ、同41年4月7日
大字南長柄の村社八幡神社(応神天皇を祀り、神体は1寸5分の水中八幡宮と
称したりと)を相殿に合祀し、本地字宮ノネキの無絡社東照宮社(徳川家康)
を境内に合併し、更に同字の同厳島神社(市杵島姫命)を同照宮料に合祀せり。
東照宮社は慶長19年徳川家康の本地足立市兵衛の宅に來りて憩ひしとき、其の姓
を尋ねられて足立なりと対へしに家康之を喜び永く足立と唱ふべしとなん申され、
且紋章等を与えられしに依り、後一祠を設けて家康の霊を祀りしものなりと。
豊崎神社氏地は本地及び大字南長柄、大阪市北区西権現町・同東権現町・同横道町
同葉村町・同黒崎町・同中野町・同浮田町の全部、同天神橋筋東4丁目の内なり。
さて、この足立市兵衛が登場するのは慶長19年(1614)なので、墓の持ち主とは160年も離れています。
代々同じ名前の末裔なのでしょうか???
足立市兵衛を調べていて、明治中期の別の人物に突き当たりました。
某企業の創業者にあたり、現在問い合わせ中です。
誰でも知ってる会社で、今もその製品はよく使われています。
創業者一族はすでに経営から離れ、由来を知る人物はかなりの高齢ということまでは伺いました。
豊崎の東照宮と川崎東照宮を混同しているHPもあります。
大塩平八郎の屋敷裏にあった川崎東照宮は明治初めに北野にあった萩の寺(東光院)に移され
さらに大正3年に現在の阪急宝塚線曽根に萩の寺ごと移転しています。
豊崎東照宮は上記縁起のとおり本庄村にあったものです。